服従
服従
岩手県から同窓のM牧師が説教と講演のため、来阪されました。大学院修了後、岩手に派遣されたMさんは30代半ばではありますが、牧師としてのキャリア11年のベテランです。ちょうど10年目に3.11が起こり、今もまだ復興途上にあります。
過疎の地で教会の牧師と幼稚園の園長をしておられ、震災後には全国各地、また海外からも献金やボランティアが送られて来て、瞬く間に注目される教会、牧師となりました。その重圧はどれほどだろうと思います。しかしMさんは飄々としておられるのです。
日ごろの牧会について伺ううちに、驚いたことがありました。東北の葬儀の風習です。あちらでは火葬式に友人知人、近隣の方々などが大勢集まるそうで、身内だけで簡素に済ませる都会のそれとは全く違うそうです。きちんと式次第(プログラム)を準備し、メッセージも語る。火葬後に行なわれる葬儀にもまた、たくさんの人が集います。一連の葬送の儀となると、5、6日ほどかかり、体力勝負、命懸けの牧師としての仕事なのです。
また園長として、今後より地域の福祉や教育に貢献する園のビジョンや、日ごろ行なっておられるスタッフ教育の苦労なども伺いました。
「聖なる道は、平凡な日常の神への服従の積み重ねの中にある」と尊敬するF先生が書いておられる記事を読みました。「聖人」として崇められている人は、自分が有名になるために何かをしたのではなく、ただ黙々と主の道を歩む中で、神からの呼びかけに従っただけなのだと。
Mさんの置かれている状況は今、非常事態ではありますが、それまで10年間コツコツと積み上げてきた信頼関係、牧師としての歩みの延長線上に今があるのでしょう。
私は日ごろ、どんな神のしもべなのだろう、どんな神の娘なのだろう。心探られています。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ8:34-35)
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