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忘却との闘い

忘却との闘い

丹波の紅葉はそれはそれはみごとでした

「京都の七条に耳塚があるやろう? ここは、その耳塚や。いや、肺塚や」
(『ワシらは鉱山で生きてきた』丹波マンガン記念館発行)

京都市右京区にある「丹波マンガン記念館」の初代館長、故・李貞鎬さんの言葉です。強制連行されて過酷な労働の代償としてじん肺(肺疾患)を患い、いのちを落として行った同胞の歴史を後世に伝えたいという情熱で、1989年に同館を開館。李さん自身が、40年以上の鉱夫生活を続けた結果、じん肺のため6年後に逝去されました。

嵐山を25キロほど北上、福井県小浜市へ抜ける国道沿いに記念館があります。このあたり京北地域一帯には、大小の鉱山が300ほど点在し、約3000人が働いていました。発破(ダイナマイト)をかけ、小さな穴に潜り込んでノミで掘っていくなど危険できつい作業には朝鮮人や部落の人が従事し、日本人は監督や火薬の管理などの作業をしました。大量の粉じんを吸い込んだ労働者の肺は真っ黒になり、次々と倒れましたが、労災による補償も長らくの闘いの結果やっと勝ち取ったものです。
ヘルメットをかぶり構内に入って歩きながら約40分、当時の採掘の様子についての説明を聞きました。マネキンが当時の過酷な労働の様子を再現しています。天井から時には水がポタポタと落ちて来て、暗い構内から外に出るとホッとした気分になりました。立って歩き回れるのは見学用に坑道を広げたためであり、実際の採掘現場は落盤事故防止のため、人一人がやっと横になってもぐりこめる程度のものだったということです。

人間の罪深さと醜さを思いました。また、次世代の私たちが、人間の過ちや恥部を伝える義務と責任があることを強く感じさせられました。

「これをあなたたちの子孫に語り伝えよ。子孫はその子孫に/その子孫は、また後の世代に」(ヨエル1:3)


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