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バウンダリー②

バウンダリー②

巨済島の朝焼け

「バウンダリー」(心の境界線)について話す機会がありました。とても衝撃的だが興味深いという反応と、境界線はあってはならないという否定的な反応に分かれました。
 私自身このことについて学び始めたばかりですが、在日コリアンという立場に置かれ、子どものころから「私は何者なのか」とアイデンティティーについて考えざるを得ない状況にありましたので、腑に落ちる概念でもあり、また新鮮でもありました。

 自分が何者なのかがわからないと、自信が持てず将来への希望も持ちにくいでしょう。自分を心から愛することは、もっと難しいのではないでしょうか。
 しかし一般には「境界線」は人と人を隔ててしまうので、ない方がよいもののように考えられていることも確かです。心の境界線、バウンダリーを壁のようなものとして捉えた場合、断絶、分離という悪いイメージが生じるでしょう。
 けれども、風通しがよく内も外も見通せる「垣根」のようなものと考えるとずいぶん違うイメージが湧いてきます。

 もし家に垣根がないと、どこまでが自分の土地なのか不明瞭になり、隣家との問題が生じます。一方、垣根があっても、家の中に入れたいと思う人は自由に出入させて親しく交わることができますが、その人たちに垣根を取り払わせるようなことを許す人はいないでしょう。

 神様は私たちの境界線を尊重されます。私たちが「ノー」という時、無理やりに垣根を破って入っては来られませんが、その代わりに私たちの選択の責任を私たち自身に負わせられます。放蕩息子が財産の分け前を受け取りたいという時、父親はそれがいかに危険で誘惑に満ちたものか、よく知っていましたが、彼のしたいようにさせ、その結果として飢えと惨めな生活というツケを彼自身に払わせました。

「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)とイエスは言われました。隣人を愛するには、自分を愛していることが大前提です。主の御手の中で傷を癒していただき、神さまと私、私と他者との健全な関係を築いて行きたいと心から願います。

「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」(箴言4:23)

【参考資料】
『境界線(バウンダリーズ)-聖書が語る人間関係の大原則』(地引網出版)


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