ありのままで
ありのままで
2週間ほど前のことになりますが、友人と1日京都で遊びました。
一緒にドライブしてランチをして、ぶらぶらと散策をしてたくさんおしゃべりをして、夏の嵐山の風景を楽しみました。
最近はそれほどスケジュールはつまっていないので、休むことはできますが、思い切ってふだんの生活から離れてリフレッシュするという機会がほぼなかったためいのちの洗濯になりました。
この友人とは20年来のつきあいになります。
神学校で1年間一緒だったので、ご飯を食べながら、温泉につかりながら、文字通り裸のつきあいで時間を共有しました。
気の置けない友人がいるというのはありがたいことです。
ところで私たち人間は、服を着ないで出歩くことがないように、いろいろなものを重ね合わせて裸の自分、本当の自分というものを人に見せないようにしています。
最初の人、アダムとエバは楽園では裸でしたが、互いに隠すことがなく、恥ずかしくありませんでした。
生まれたままのありのままの姿で平和に暮らしていたのです。
ところが罪というものが入り込んだとたん、恥ずかしくなって、慌ててイチジクの葉っぱで裸を隠すようになりました。そして神さまからも隠れるようになったのです。
裸の自分を覆い隠すのは人間の罪のゆえです。ありのままの自分を恥じるからです。
ありのままの自分を出せない人は当然、他人をありのままで受け容れいることはできません。相手を自分の要求に合わせようとし、思うようにならないときには失望し、ときには残酷になります。
イエスさまが人を信用されなかったのは、このような人間の性質をよくご存じだったからです。人の心の奥底を知り、満足させることができるのは神さまおひとりだけです。
罪と欲にまみれた自分のありのままの姿は誰もが恥ずかしいと、とても人様には見せられないと思うのです。
イチジクの葉っぱであわてて裸を覆って楽園を追われるアダムとエバに神さまはあわれみをもって皮の衣を与えてくださいました。
キリストの十字架によって、いまや私たちのすべての恥は覆われ、罪はきよめられました。この神さまの愛を基礎としなければ、私たちの人間関係は、とてもむなしいものになってしまいます。
あなたは人に期待していますか。
それとも神さまに期待をしていますか。
しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。(ヨハネ2:24-25)
メールマガジン20170730「まな・Toyonaka」より