行間を読む
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春から落語を習っています。といっても初級講座ですから、恥ずかしいので内緒にしていたのです。ところが、最終回の発表会の出演メンバーに選抜され、お友だちを呼んでいいですよ、と言われたので嬉しくなって公表することにしまた。
落語に興味を持ったきっかけは二つあります。一つは教会員のPちゃんのお父さんがお好きなので、話のネタにと思ったこと。もう一つは月に一度奉仕に行っている「愛の家」で説教をするとき、思いついて聖書のストーリーを落語風にしてみたら、結構ウケたことです。
落語には普通、台本はありません。師匠から口移しで稽古をつけてもらって習うそうです。私たちは素人なのでテキストがあるのですが、その中にいわゆる「ト書き」のようなことは一切書かれていません。それもそのはず、おはやし以外には何もない、一人芝居ですから。
ここでAはBに小馬鹿にされたので怒っているとか、Aは夜店の店主でBは客なのでAは座っていてBは立っているとか、細かいところまで想像力を働かせて、自分なりに描いてみて、それを演じることが重要です。
落語といえば噺を覚えることと、声の調子などが難しいのかと思っておりました。それもそうなのですが、なお一層重要なのは、演出力、想像力を膨らませて色づけしていく作業ではないかと思います。それがわかったとき、一つの噺を初めて自分のものにできたような気がしました。
聖書の読みにも共通したものがあります。新約聖書の福音書でいえば、イエスさまが話された言葉や奇跡などは限りなくありますが、その中で重要なものごとだけが記されています。会話もすべて再現されているわけではありません。このときどんな状況だったのか、イエスさまは、弟子たちは、他の人はどんな気持ちだったのか、想像力を膨らませ、黙想しながらその世界に入って読むことが大切です。
もし、私がこの場にいたならどう感じ、どうふるまったのだろう。そのようにして読むとき、初めて聖書がただの「本」ではなく、あなたの「いのちの書」となるのです。
「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」(Ⅱテモテ3:15)
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