2011-09-25
2011-09-25
杞憂
昨日はS兄の1年目の追悼礼拝でした。いつもダンディでジョークが大好きで、茶目っけたっぷりのSさんを懐かしく思い出します。
白状しますと、牧師になって一番恐れていたのは、いつかSさんの葬儀を執り行うことでした。牧師の様々な働きの中でも葬儀は大変重要であり、それだけに大きな緊張を強いられます。新米だった私は、社会的に活躍され、たくさんの親族や知人が集うと予測される場で、どんな話をすればよいのかと気に病んでいました。
そして何よりも、めったに教会に来られなかったSさんが、イエス・キリストによる救いの確信をもって恐れることなく、平安に天の御国に凱旋してほしいと願い、特にそのために4年間祈ってきました。
「杞憂」という言葉があります。昔々、中国の「杞」の国の人が天が落ちて来やしないかと馬鹿馬鹿しい取り越し苦労をしたという故事から来ています。私の悩みも全くの杞憂でありました。
お元気だったSさんも病のためだんだんと弱られ、特に最期の1~2年間は頻繁に訪問して、親しくお話する機会が与えられました。そして、イエスさまを信じていますか、信じているならみことばの約束ですから、神さまの御国に必ず入れていただけますよという直球勝負の問答を、何度もすることができました。
神さまはSさんを通してたくさんのことを教えてくださり、新米牧師を訓練してくださいました。天国でそうやそうやと笑っておられるような気がします。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ8:28)