ぶれない
ぶれない
落語のテクニックの基本の「き」に当たるのが、上下(かみしも)を切ることです。座ったままの一人芝居ですので、顔を左右に振ることで、別の人ですよという合図になるわけです。ちなみに、客席から向かって左が舞台の下手、右が上手になり、年上の人や身分の上の人は上手にいますから、必ず下手を向いてしゃべります。
こんな単純なことですが、これがかなり難しいのです。私たち落語講座受講生は、どうしても不自然になってしまいます。左右の幅が広すぎたり、角度が対照でなかったり、上目遣いになったり下目遣いだったり……。
やはり上下がビシッと決まっていて、同じ人物に対しては毎回同じところを見ながら師匠がお話しされると、登場人物すべてが目に見えるようです。しかし、同じ話を受講生が演じますと、相手が今どこにいるんだか、同じ人なのかかどうかよくわからないことになってしまいます。
それでも曲りなりに練習していると、多少「つかめた」という感覚があり、前ほどは「目線が泳いでる!」と注意されなくなったのですが、ある日、びっくりすることがありました。
お稽古は2班に分かれて、一つの班は舞台で、別の班は座席の通路で一人ずつ師匠に見てもらいます。通路でのお稽古の日のこと、薄暗く狭い場所で客席の間に座ります。舞台とは全く違う景色なわけです。そうすると、とっさに上下がわからなくなり、また目線もどこへやっていいかわからなくて不安定なものになってしまったのです。
師匠の方は通路であろうが、大きな舞台であろうが、自分の部屋であろうが、いつどこでも視線は同じ。決してぶれないのです。それと、ホンマに相手の姿が見えてるんとちゃうか、と思うような表情や声。見えないものを見る、ということも何だか信仰のあり方とつながるようで、ますます興味深いものがあります。
落語ネタだけで10回はいけそうですが、「またか、つまらない」と言われないようにカックン(가끔=たまに)書くことにします。おあとがよろしいようで。
「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。」(詩篇16:8-9)
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