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はい、ここにおります。

はい、ここにおります。

デンマークカクタス、カニサボテン

テキスト:創世記22:1-18

 みなさんが何度も読まれたおなじみの箇所だと思いますが、改めて想像力を働かせて読んでみましょう。最愛の一人子を神にささげ、しかもむごたらしいやり方で殺さなければならないのです。それなのに、この物語は一切の感情表現もなく淡々と描かれているのです。
 よくアブラハムの信仰はりっぱだとか、見習おうと言われますが、そんなものでしょうか? 迷いや悩みはなかったのでしょうか?

 文学作品、絵画、音楽など作品の解釈は受け取る人に任されています。作者の意図や思いはありますが、読む人見る人が自由に受け取っていいのです。感情表現を交えない聖書の出来事は、私たちが深く味わいそれぞれに受け取る「のりしろ」です。

 さて、今回とても気になったのが呼びかけと応答です。神が「アブラハムよ」と呼びかけ「はい」(新改訳と韓国語聖書では「はい、ここにおります」)と答えます。アブラハムとイサクの間にも呼びかけと返事があります。残酷な物語の合間合間に、この呼びかけが入っているのです。
 アブラハムの心中を考えてみましょう。場面①ささげなさいと言われてから翌朝まで②家を出発して3日間③イサクに小羊はどこかと聞かれたとき④焼き尽くすささげものの準備をし手をかけるまで⑤神の「待て」。これらの場面の主人公が自分だと考えてみましょう。
 悩まないはずはない。苦しまないはずはない。そして手足を縛られて、たきぎの上に載せられる息子イサクですが、もう青年になっているし父親との信頼関係があるので、大人しく言われるがままになったのだという解説も聞いたことがありますが、そうでしょうか? いやあ、叫んだと思います。暴れたと思います。父親をののしったかもしれません。

 神はなぜこんなむごい要求をされたのかという疑問がわきます。小羊を備えてくださるのなら、わざわざ言わなくてもいいのに。呼びかけと葛藤、沈黙と苦しみ。このすべてのプロセス(課程)が重要だったのではないかと強く思いました。
 苦しみ悶え、泣き叫ぶ子を見て、はらわたがちぎれる思いで手をくだす。「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てに」と叫ばれたイエスと一人子を世に与えられた神の姿を思います。

「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が、『はい』と答えると、神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』」(創世記22:1-2)

2016.1.10礼拝説教要約

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