最高傑作
最高傑作
「大人しくて何が悪い?」というエッセイを読みました。
この人はどちらかというと一人で静かに過ごすのが好きでした。しかし、いつも休み時間に本を読んでいると、担任の先生から問題があるとされました。小学校では「明るく元気に」というのがクラスの標語だったそうです。
でも、みんながみんな明るくわいわいとしなければならないのか。
友だちの人数が多い方がいいのか。
無理にまわりに合わせて付き合うのは、本当の友だちなのか。
すべての人が明るく元気でなければならないのか。
一人ひとり性格が違い、個性があるはずじゃないのか。
それをつぶす学校はおかしいんじゃないか。
著者はそう提言しています。
多くの子どもたちはいじめにあわないよう、特定のキャラを演じているということをよく耳にします。そしてときどき、疲れてしまうのだと。
子どもたちに限らず、私たちはありのままの自分は受け容れられないし、とても人には見せられないと思っています。なので、礼儀作法や教養や親切心、道徳、いろいろなもので自分をカバーしています。普段はそれでいいのですが、ときおり、ものすごく疲れてしまいます。
なぜ、ありのままの自分を見せられないのでしょうか。
恥の意識があるからです。
「世間に恥じないように」と日本では子どもに教えてきました。
恥ずかしくないよう
人に笑われないよう
後ろ指をさされないようちゃんとしよう。
きちんとしよう。
そう思うのですが、なかなか人間理想通りにはいきません。
それで自分自身をあるがままで受け入れることも愛することもできず、
ダメな自分、恥ずかしい自分
もっときちんとしなきゃ
もっと立派にやらなきゃ
そのような意識が生まれてきます。
最初の人、アダムとエバが神さまに反抗し食べてはならない善悪の知識の木の実をとって食べた後、
裸であることを知り、イチジクの葉で腰を覆いました。
神さまがこの世界と人間を造られたとき、「極めて良かった」(創世記1:31)とおっしゃいました。特に人間は、ご自分にかたどってつまり、神さまに似た者として造られた神さまの作品です。
ああ、ちょっと失敗した!
ここはまずかった!
というような不出来な者ではないのです。
それなのに人間は、自分にはあれができない、これができない。まだまだ自分はダメだと自己をいつもマイナス評価ばかりしています。
成長しようとすることは目標をもつことはよいことですが、できない自分に目を向けるとき、がっかりしてしまうのです。
神さまはあなたを失敗作として造られませんでした。
すばらしい最高傑作としてお造りになりました。
いま、あなたが自分をどう思っていようとそれは真実です。
神のみことばがそう語っているのですから。
まずはこのことを心に留めましょう。
あなたは恥ずかしい者、いろいろなものを身につけてカバーしないと人前に出られないような、そんな存在ではありません。
ありのままで愛され、受け容れられています。
神の子、神の作品なのですから。
このことを心から感謝しましょう。
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。(創世記3:7)
メールマガジン20170801「まな・Toyonaka」より