2011-01-02
2011-01-02
恥じることなく
新しい年の皆さんの抱負はどのようなものでしょうか?
ふた月ほど前、友人牧師がある夫婦と知り合いました。クリスチャンの親の影響を受けており、「最後はキリスト教で」「そのうち教会に通います」と言っておられ、楽しみにしていたのですが、交通事故であっという間に亡くなられました。
息子さんから葬儀の司式を依頼された友人は、彼らが実際の信仰生活が味わえなかったのが残念でならず、なぜもっと積極的に信仰を勧めなかったのかと悔やんだそうです。
私たちは今日がダメならまた明日、と先延ばしにすることが多くあります。しかし、明日は、来年はないかもしれないのです。
パウロは獄中で「ピリピ人への手紙」を書きました。捕えられてもなお、福音を語ることを止めませんでした。キリストによって新しいいのちを与えられた彼にとっては、生きるにしても死ぬにしても、どういう場合でもキリストが証しされることが第一でした。
誰もが限られた人生の時を刻んでいます。いのちまで惜しまず与えてくださった方のために、いついかなる場合でも恥じることのない生き方をし、私を通してキリストが現わされるように歩もうではありませんか。
「そして、どんなことにも恥をかかず、これまででのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1:20-21)
(元旦礼拝メッセージから)