イエスの涙
イエスの涙
ラザロの復活の記事には、いろいろな疑問があります。最初の疑問は、なぜイエスさまはラザロの病気の知らせを聞いてもすぐには行かれなかったのかということです。2日もたってからやっと重い腰を上げるようにして行かれるのです。
出迎えたマルタは言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。姉妹は期待していたのです。ラザロを愛してくださったイエスさまのことだから、飛んできて祈って癒してくれるはずだと。
イエスさまは遅すぎたのでしょうか。間に合わなかったのでしょうか。
私たちの人生にも、そういうことがあります。祈っても答えがなく、主が沈黙しておられるように感じることがあります。最悪の事態が起こってしまうことがあります。
私たちはこの世の常識や自分の都合で「時」を計りますが、神さまの「時」はそれとは違う、ちょうどよい「時」なのです。ラザロの死によって主は栄光を表されたのです。
もう一つの疑問は、イエスさまの涙です。どのような理由でどんな気持ちで涙を流されたのでしょう。周囲の人たちが言うように、ラザロを愛しその死を悲しんで泣かれたのでしょうか。
イエスさまは意図的に、ラザロが死んでから行かれたのです。それなのに「ああ死んでしまったのか」と悲しみの涙を流されるのはどうも理屈にあいません。
死というのは私たちにとって、どうしても克服できない最大の壁であり、敵です。人間みな死ぬとわかってはいても、いざ愛する人の死に直面すると、私たちは動揺し怒り嘆き、なぜ!と叫ぶのです。
そのような弱い人間の姿と、愛すべき人間に立ちはだかる罪の結果である死に対して、主は憤り涙を流されたのではないでしょうか。私たちは弱いけれど、主は墓を破り、死に打ち勝たれた方です。
ハレルヤ!
2014.4.6礼拝説教要約
「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた『どこに葬ったのか。』……イエスは涙を流された」(11:33-35)
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