最期の願い
最期の願い
敬愛するYさんが先週、72歳の生涯を閉じられました。
昨年10月21日の感謝節礼拝までは休まずに礼拝に来られ、奉仕をされていましたが、その週に救急車で運ばれました。幸い早く処置ができたので、ゆっくりではありますが会話もでき、リハビリに励んでおられました。ところが、2月14日に急変したのです。
15日にICUに行って祈り、意識はなくても必ず聞こえていると信じて「このままで逝ってはだめですよ。みんなに言いたいことがあるでしょう」と話しかけてきました。その時、ちょうど韓国から来ていた義兄のS牧師も同行し、私が祈っているときにふと見ると、一定していたモニターの針が振れてかすかな反応があったと言います。それからちょうど1週間後、召されたとの連絡を受けました。
この1週間はご家族にとっては別れのための時間であったでしょう。しかしYさんのほうでも、なさっていたことがあるのです。意識はなくても霊は生きています。Yさんは必死で祈っておられたと信じます。
詩篇91編をある方にすすめられて1,000回読み、読むうちに悔い改めに導かれました。すべてを諳んじて何度も繰り返しながら、「神さまどうしてですか」という訴えの叫びが、こんなに足りない者を愛して支えてくださる方への感謝の祈りへと変えられました。
いろいろな願いや問題、祈りの課題がありました。けれども最期にはすべて放棄し、主に委ねてたった一つの最期の願いを主に申し上げたと思うのです。それは何よりも、愛する家族の救いでした。姑さんから受け継いだ信仰を私たち夫婦の代で途絶えさせてはいけないと、何度もおっしゃっていました。
私たちは死ぬ時には何一つ持っていくことはできません。しかしYさんの遺された何より尊い信仰という遺産を、ぜひ受け継いで天の御国への希望を持っていただきたいと心から願います。
彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」(詩篇91:15-16)
2012.2.23告別式説教より
コメント
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박목사님 수고하셨습니다 최선을 다해 복음을 전했으니 하나님께서 열매맺게 해주실것입니다.