懇願する園丁
懇願する園丁
因果応報という言葉があります。ものごとには原因と結果が必ずあるという考え方です。自分や家族の身に苦しみや災難が降りかかった人は神に怒りながら、一体何をしたから、どんな罪を犯したからこんな目に遭うのだと訴えます。
しかし、イエスさまははっきりと、そうではないと言われます。だとすると、一体なぜこんなことが起こるのだと私たちは聞きたくなるのです。けれどもそのことについて、主は説明なさらず、何をすべきかを語っておられます。
悔い改めよとの勧めの後、イチジクを植えた主人の話をされました。3年たっても実がならないイチジクの木を切り倒すよう主人は園丁に言いました。けれども、園丁は主人にとりなすのです。
私たちはこの「園丁」の姿を心に留めたいと思います。裁き主である神さまと、実を結ばず役に立たない存在である私たちの間に立って、どうか待ってくださいとお願いする弁護者イエス・キリストの姿です。
この方がおられなければ、私たちはとっくに切り倒されて火にくべられ灰になっている存在です。清い者ででも立派な者でもないのに、勘違いして人を責め人のせいにばかりして生きている私。自分の価値観を人に押し付けて、人を見下す私。神さまがいるならなぜ、といって神様の力を認めようとしない私。
そのような者ためにイエスさまは、何とかやってみましょうと世話をしてくださり、とうとう最後には御自分が木のために肥やしとなって、つまりいのちをささげて十字架にかかってくださった。そこまでして私たちが実を結ぶように、つまり悔い改めて神のもとに立ち返るようにしてくださったのです。
このキリストの愛と犠牲があってこそ、今私たちはここに生かされているのです。
「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」(ルカ13:8-9)
2013.3.3説教要約